山田検校 ( 1757 年 - 1817 年 )
関連概念 : 音楽家
日本

[Yamada kengyou]

山田流箏曲創始者の盲人音楽家。
山田勝善。都名は斗養一。三田斗養一。
ほか、勝善・幽樵・游松などと号する。

【背景】

組唄の禁止を命じた安村検校は、江戸にも箏曲を植え付けようとして、門下の秀才であった長谷富検校を江戸に下らせる。
長谷富検校は、気長く普及の努力したが、隆盛にならないので、門人の町医者であった山田松黒に後をゆずって京都に引き揚げた。
この、『箏曲大意抄』(箏組歌の譜本)を著す山田松黒は、三田斗養一と言う天才児を発見して、之に奥儀を授けて山田姓を名乗らせた。

【生涯】

尾張藩宝生流能楽師ともいわれる三田了任と母・山田の子として、1757年(宝暦7)江戸に生まれる。
幼年期に失明し、当道座に入った。

15歳頃(1772)、長谷富検校門下で『箏曲大意抄』の著者の医師山田松黒に師事して箏組歌を習得したといわれ、また、確証はないが、17歳頃(1774)から、河東節一中節など当時江戸で流行していた浄瑠璃系三味線音楽の箏曲化を試み、21歳(1778)で処女作『江の島の曲』(『江の島』) を作曲したといわれる。
1797年(寛政9) 、源照派の寺家村脇一検校を師として検校に登官。

その後、同様の浄瑠璃的な箏曲を作曲、1800 年には『山田の穂並』、1809年(文化6)には『吾嬬箏譜』(あづまことうた) などの歌本が刊行され、また、同1809年、自序を付した楽譜集も出されている。
斯くして陰気な地唄を江戸の気風に沿うものに変化させた為忽ち江戸はもとより関東一円に確固不動の勢力を張る。
それまでの江戸の生田流系の地歌箏曲を圧し、彼の新作の箏曲が江戸中に広まったことは、岩瀬京山 (山東京山)『蜘蛛の糸巻』に記される。

1817年(文化14)2月には第68代江戸惣録となったが、2ヵ月後、4月10日に没した。
没後惣録の座は、競争相手であり、『乱れ』の替手の一つの『雲井乱』の作曲者でもある生田流の野田菊一検校が代わった。

【門下】

山田流の勢力が盛んになり、門下には、山登松和一・長谷川松貞養一(長谷川検校)・山藤松国源一・山和勾当・西田勾当などがあり、松和一が後継者と目されたが、山田姓を襲名せず、山登検校で通して「山登派」の祖となった。
盲官系譜上の門下ではないが、山木検校山勢検校・小名木検校も山田検校に師事し、それぞれ「山木派」「山勢派」「小名木派」(中能島派)の祖となり、後年、これらの門流を山田流と称することになる。

その他、三世山彦新次郎こと、一中節の初世菅野序遊も師事している。
また、近親に箏商重元房吉 (初代平八) があり、山田検校の三男幸三郎幸恕は、その養子となって二代平八を継いだ。
ほか、太田錦城・加藤千蔭・村田春海・横田袋翁・高木百泰などと親交があった。

【作品・計36曲】

これらの作品のうち、叙景・抒情的な詞章の一部は、加藤千蔭・横田袋翁・高木百泰らの作詞によるものもある。
これらの流行のようすは,式亭三馬の『浮世風呂』に描かれている。

  「箏組歌
     『初音の曲

  「箏組歌奥の四つもの」
     『小督の曲』(こごう)
     『熊野』(ゆや)
     『長恨歌曲
     『葵上

  「中七曲」
     『那須野』(尾上松助との交友の結果生まれた)
     『江の島の曲』(江の島)
     『桜狩』(櫻狩。松平定信の委嘱らしい)
     『紀の路の奥四季の段』(四季の段
     『住吉
     『八重垣
     『千里の梅』(千里の梅の曲)

   その他
     『ほととぎす
     『曲水

2004/06/13 masashi tanaka
2007/03/06 masashi tanaka

戻る
内容編集
この人物を消去