生田検校 ( 1656 年 - 1715 年 )
関連概念 : 音楽家
日本

箏曲の演奏家。
都名は幾一(いくいち)。

八橋検校の門弟北島検校城春に箏曲を師事。
同門には、後に継山検校らを輩出する「住山流」の住山検校や、また、倉橋検校(1724没)らがいた。
竹本義太夫と同世代。
現代の筝曲では、生田の流れをひく生田流と、山田検校の流れをひく山田流とが主流である。

【生涯】

1656年誕生。
1696年 (元禄9)、今井検校序一を師として検校登官。
1705年 (宝永2)、当時の職階で最高の七老となる。
当時世間で大いに流行していた三味線の合奏を試み、地唄筝曲とが融合する基礎を作った。
1715年没。

箏組歌《思川 (おもいがわ) 》,段物《五段》,などを作曲し (思川,五段は),《砧(きぬた) 》の, 《十二段すががき》の三弦などを手付けした。。


【弟子】

18世紀初期から大阪・京都に分かれた米山検校つま一(古生田流)・倉橋検校しゅんせう一らに教え、この伝承が、後世、生田流と称せられた。
また津軽郁田流の曾呂都倉橋検校門下?)も弟子か。

大森検校うか一が二代生田検校を、秀島検校うか一が三代生田検校を、それぞれ襲名。

【作曲】

    箏組歌 『思川』作曲者に異説あり
    段物  『五段』作曲者に異説あり
    三弦長歌『小笹』

    箏組歌 『』箏手付
    段物  『十二段すががき』三味線手付

    『雲井五段』?
    『鑑の曲』?(手鑑の曲)
    『四段砧』?(京砧)

【意義】

八橋検校が平調子の考案により三味線との合奏の可能性を開いたとするならば、生田検校は実際にそれまで全く異なる種類の音楽であった両者の合奏を実際に始めた。

さらには爪を角爪という四角い爪に改良し、三味線と合奏できるように、の手法の拡張(スクイ爪)、の演奏法の技術的進歩を生むことになる。
また、教授法が優れていたとかで、生田流は、他の流派(佳川検校の新八橋、住山検校継山検校藤池検校)の諸流を圧して隆盛を見た。

2004/06/13 masashi tanaka
2012/06/12 masashi tanaka

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